この後、15世紀から19世紀初めにかけてスロヴェニアを掌握したのが、オーストリアのハプスブルク家です。
1804年には、スロヴェニア全土を支配しました。
この時期のスロヴェニアは、北方の巨人に対して武力では屈せざるを得なかったものの、
スロヴェニア人としての民族意識を開花させるための、大きな力を得ました。16世紀のプロテスタンティズムは、
反ハプスブルク家のシンボルとなり、牧師らは約50冊の著書やスロヴェニア語の文法書を出版します。
それから200年後、自由主義者アントン・トマシュリ・リンハルトが、史上初めての
スロヴェニア民族の歴史書を著しました。そして1848年のヨーロッパの「諸民族の春」に続き、
ヨーロッパ浪漫主義精神の代表詩人フランツェ・プレシェーレンを中心に、「統一されたスロヴェニア」の 政治綱領が出版され、彼らの精神的背景は確立されたのです。

18世紀後半のナポレオンの登場は、スロヴェニアの運命を左右するできごとでした。
1809年、ナポレオン軍はオーストリア軍を破ると、神聖ローマ帝国を6つの領域に分断します。
その後、オーストリア宰相メッテルニヒのウィーン体制により1814年再びオーストリアの
統治を受けることになりました。
しかし1848年、三月革命によりメッテルニヒが追放されると、ウィーン体制は崩壊。
この時点でスロヴェニアはウィーン体制から解放されたドイツやイタリアからの介入を避けるために、
オーストリア=ハンガリー帝国の保護下にあることを選択しました。
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